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 健康体の安楽死は許されるのか
2010年07月17日 (土) | 編集 |
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☆子猫と成猫の里親会 
7月16日(金)7月17日(土) 
13時~17時 雨天決行
▼ TNR日本動物福祉 病院内
  川崎市川崎区大島4-23-13
  
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健康体の安楽死は許されるのか

行政による殺処分が合法であるとしても、個人や動物愛護団体また獣医であっても動物を殺すことは犯罪ではないのだろうか。
苦痛を与えさえしなければよいということではない。
そこで、安楽死の意味、獣医であってもどういう時に許されるのか、
安楽死の定義が必要に思われ、国に質問したいと考えていました。


下記は、知人がネットで見つけてくれました。
とても、考えさせられ勉強になりました。
是非、多くの方にお読みいただきお考えいただきたいと思いましたので掲載させていただきました。

「健康体の動物を殺すことはその方法にかかわらず許されることではない。」
 これは、私の考えです。



http://www.geocities.jp/klcrfamily/doubutumondai01.htm

1.動物問題は何故おきるのか
2.健康体の安楽死は許されるのか


1.動物問題は何故おきるのか
 
 人は何故、人を殺してはいけないのかと言う問いにに対する答えはまず(1)死は不可逆的なものであること。さらに、(2)多くの場合、死ぬまでの過程において精神的、肉体的な苦痛を感じるであろうと言うこと。そして、(3)もし生きていれば、将来への計画や願望と体験するであろう利益(利害)を奪うことになるからだということができる。まず、(1)は取り返しの付かないこであるから慎重になるべきだということである。(2)は快苦を感じる能力があれば、そのことに配慮されなければならないことである。(3)は自意識を持つ存在であり、将来の生活設計や楽しみや(もちろん悲しみも含めて)希望など、全てを奪うことになると言うことである。さらに周りに対する影響もあるかもしれない。だから法律以前に人は人を殺してはいけないといえる。

 さて、生物はこれにどのように当てはまるのだろうか。大筋で考えると(1)は全部の生物に当てはまると思われる。(2)は多くの植物を除く動物達(下等な生物(昆虫など)は検討の余地があるかもしれない)に当てはまると思われる。(3)は植物と昆虫などの下等な生物以外に当てはまるのではないだろうか。例えば自分の巣に餌を蓄えるとか鳥が雛に餌を与える事は本能的な行動(親子における模倣かもしれないが)であるにせよ未来への希望といえるであろう。だから、植物を食べることは慎重になるべきだけれども植物には脳も神経もないために苦痛を感じる能力も未来への希望を感じる能力も無いので、それを食することは正当化されるということになり得る。多くの動物達は快苦を感じる能力や未来への希望など自意識があるのでそれを殺すことは人間と同様に誤りであるということがあてはまる。さらに高等な動物であれば、人間同様、周りに対する影響もあるかもしない。

 この(1)(2)(3)は法理学者や法律の研究者から見れば「動物をも含むという理由で」法理学的には採用されないだろう。それは法体系自体が動物問題に関して「人」「物」の二元論で成り立っているため、それに合わせるような法理を恣意的に作らなければ成らないためであると言ってもよいかもしれない。しかし、現在の人間の直観(レベル)では圧倒的多数の人間が動物を「物」と思っていないだろう。それは、動物を主体としてみているからである。例えば危害を受ける動物を見た時に多くの人々は、動物問題に関心の無い人でさえ、「かわいそうである」とか「なんとひどいことを」といったような同情や共感を覚えるからである(ただし、仕事としてそういった行為に慣れてしまった人や虐待を嗜好する人においてはその限りでない)。そういった同情や共感は誰に対して持つのかを考えたとき、その法的所有者や国民や社会のために持つのではなく、動物自身のためにそういった感情を持つのである。これがもし、動物でなくダンボールの箱であれば誰もがそういった感情を持つことはないだろう。だから、多くの人間が動物自身を物ではなく主体として見ているということは妥当であるということができる。だから、人、物という二元論では「動物問題」を解決できないことを多くの人間は知っていることになる。このことは動物が主体になり得るということを道徳的に認めていることを意味する。

 しかし、これは客観的な思考レベルにおいては違った様相になってくるのではないだろうか。つまり、動物と人間のおかれている立場を客観的に見れば180度違った結論となる場合の方が、つまり、動物を自由に扱ってよいという思考をする人のほうが多いと思われる。しかし、これは直接の利害関係がある人間が思慮するのであるから、いくら客観的、全体的に思慮しようとしても、当然人間に有利なように思慮されるだろう。つまり、人間と動物の関係は人間が一方的に(道徳的主体とみなしているにもかかわらず)動物を利用、搾取している側(利益だけを得る側)にとっての批判レベルでの検討結果は人間が人間に、より多くの自分たちの利益を求めた結果であるといえる。したがって、主体として見ているにもかかわらず、自分の利益を他者の利益以上の重みをもつものと考えてはならないという中立性が無いために、すなわち動物に対して動物の自由な利用という見返りを求めた結果180度違った結論がでるのである。そうなると、批判レベルにおけるその判断は、道徳においては見返りを求めるような思考や行動であるから道徳的であるとはいえない。さらに言えば、直観(レベル)「罪も無い動物を殺すことは正しくない」と客観的な思考「動物は痛みにさえ配慮すれば、人間の利益の為に自由に扱うことが出来る」が180度違うような道徳や道徳律は認められないであろう。したがってこういった場合は道徳的に直観レベルのほうが正しいといえる。その結果、道徳的主体であるとみなす動物を我々人間の道徳から排除することは出来ないことになる。(ただしこれは道徳判断であるがゆえに無条件に他の判断より優先して扱われるということを意味するものではない。)

 だから、いくら行政における動物の殺処分が合法だとしても、罪も無い動物を殺すことは道徳的に正しくないということになる。そのために、違法な行為でない(とされている)行政における殺処分は道徳的に非難されることになるのである。そのことは動物に関して二元論的な法律と道徳の対立の構図が存在することを意味する。

 なぜ、法体系自体が二元論であるのかは此処では詳しくは述べないが「動物に関して古くからの動物観(主に主観や簡単な観察に基づく動物観)により、長期にわたり形成されてきた文化・社会により要請された法理に基づく法律」だからだといえるだろう。そして古い時代における、「主観や簡単な観察に基づく動物観」は現代における動物観との比較においては正しいことであるとはいえないだろう。

 近代になるまで多くの場合、例えばアリストテレスは「自然はすべての動物を人間のために造った」といっており、イタリアの神学者トマス・アクィナスナスは「神学大全」で「殺しても、その他どんな方法によってでも人間は動物を自由に利用することができる」と言っている。デカルトは動物には精神(魂)がないから「単なる機械」であると言い、カントは動物には自意識がない。動物は単に目的の手段としてのみ存在する。その目的とは人間であるから人間は動物を道具として利用することができると言っているように、動物は物扱いされてきたと言える。そしてこの動物観は社会の慣習として、あまり修正されること無く現在に引き継がれていると思われる。そして出来上がったのが現在の法体系であるといえよう。

 しかし、現在の動物観を基づける科学の進歩は古くからの動物観をを否定することになるのではないだろうか。例えば現代の人間は、サルと人間の遺伝子の違いは1%ぐらいしか違わないことを知っているし、太古の昔において、単細胞生物から人間や動物が進化の過程において分化していたことを知っている。また古代における人間の生活レベルが食うや食わずであったのに対し、現在の先進国においてはフィットネスクラブが必要なくらい飽食の時代を迎えている。この生活のレベルの違いも当然、動物観に影響を与えることとなる。さらに犬猫などの動物と暮らすこと(同居すること)で、動物とのコミュニケーションが可能なことを知り、動物は人間にとって、より身近な存在となったといえる(つまり、親近感のヒエラルキーの上位に位置する)。こういった現在の動物観と古代から近代にわたり続いてきた動物観とは大きく違うのではないだろうか。

 つまり、古くからの動物観により長期にわたり形成されてきた社会やその慣習によって出来た二元論的法体系やその慣習を盲目的に信じていることと、現在の動物観に由来する倫理観の違いが、矛盾を生み、動物問題のもっとも大きな原因になっているといっても良いだろう。


2.健康体の安楽死は許されるのか

さて、動物であれ、人間であれ、痛みや死は望まないことである。つまり利益ではない。人間においては耐えられない苦痛のため、自ら「死」を選択することもある、つまり自殺である。動物においては動物は自殺することを知らないだろうし、もし、「死」の意味を判っていたとしても、それを絶えられない苦痛からの解放と捉えることは出来ないと思われる。また、「安楽死」の場合は余生の期間がある程度予測できるため、自殺のように、苦痛か死かどちらを優先させるかといった問題ではないだろう。だから、耐えられないような痛みがある場合において、安楽死における判断は残された余命においての「耐えられない痛み」+「痛み無き死」か、残された余命においての「耐えられない痛み」を取り除いた、単なる「痛み無き死」かの選択になる。合理的に考えると、この望まないこと、つまり不利益が二つ重なるよりも、一つだけのほうがより良いと言える。問題はその質であるが、これは比較することが不可能であると思われる。しかし、比較できないにせよ、結果から見れば、もし安楽死を選択しない場合を100%の不利益とすると安楽死をした場合の不利益はそれ以下になる。つまり「苦痛と死」は確実に訪れるが(上の例「1.動物問題は何故おきるのか」で言えば(1)と(2)の不利益があることになる)、安楽死を選択した場合「痛み無き死」だけしかない。上の条件で言えば問題は(1)の不利益しかないのである。いいかえれば、安楽死を選択しない場合は、耐えられない苦痛のある余命が長ければ長いほど苦しみの総量は増え続け死を迎えることになる。逆に安楽死は余命をなくす(死期を早める)行為であるから苦しみの総量は増えない。だから、耐えられないような痛みがある場合に望まないことでの苦痛(不利益)を増やすことは妥当であるとはいえないだろう。それゆえ「安楽死」は当事者の自己決定が確認できない場合も、当事者の利益のために他者による安楽死の判断が、状況によって正当化され得るし安楽死と呼ぶことは妥当であるといえる。

 しかし、健康体の「自家殺処分、殺処分」には理由が無い。罪なく殺される動物に耐えられない痛みがあるわけでもなく、死期が迫っているわけでもない。残りの余生は量、質とも全く予測できない。上の例で言えば(1)(2)(3)の不利益がそこにあることになる。ここに大きな違いが存在する。さらにその上、正当な理由の無い強制による苦痛(不利益)を作り出していることになり、それゆえ安楽死とは呼ぶことはできない。これが安楽死と呼べるのであれば強制的に殺すことは痛みに配慮すれば殺人は安楽殺にまた強制的なSex、つまり強姦は痛みに配慮すれば安楽Sexと呼べることになる。また、此処では立ち入らないが、動物との信頼関係を利用して殺すような手法は、いわば「だまし討ち」であり倫理的に認められないことは自明である。

 さらに、健康体の自家殺処分は正当な理由が無いのであるから、「動物の愛護と管理に関する法律第44条」に抵触することになる。もし、これが抵触しないのであれば、素行不良動物、里親の見つからない動物、つまり不用動物等々の自家殺処分が許されることになり、動物愛護団体、ブリーダー、ペットショップにおいて、痛みに配慮さえすればそういった動物を殺すことは自由になり、動物と愛護に関する法律は全く意味を成さなくなるであろう。その上、当然、すべり坂の議論のように、その風潮は一般家庭へも広がって行くだろう。そうなれば、一般社会で動物を殺す事を涵養することに繋がり、社会に良い影響があるとはいえない。これは、動物の権利、動物愛護の立場だけではなく動物の福祉の立場からも認めることができないことであるといえよう。





http://www.geocities.jp/klcrfamily/anrakushi01.htm

動物の安楽死の検討(動物に安楽死はあり得るのか)

 はじめに。
 近年、コンパニオンアニマルが増加するにつけ、動物問題が多く語られるようになってきた。その中でも、行政における殺処分が安楽死といえるのかといった問題や、動物愛護団体、福祉団体における愛護動物の安楽死の問題も浮上してきている。実験動物における安楽死の指針は実験業者等により決められているようだが、コンパニオンアニマルについての安楽死の基準は、行政はおろか一般にもそういった基準はない。にもかかわらず「殺処分は安楽死です」や「安楽死処分です」と宣言する自治体もある(註1)。そもそも、そういった議論の中心を成すのは、二酸化炭素による殺処分は苦痛を伴うかどうかと言った、つまり「安楽死」をどのように行うかといった方法論だけに終始しているようである。それ以前に、動物にとって安楽死はどのような意味を持つのか、人間には安楽死は存在するが、動物にも安楽死は存在し得るのであろうか、また、安楽死はいったいどのように行うことが安楽死と呼べるのであろうかといった問題を、そのような方法論よりも、まず、最初に検討するべきではないのだろうか。こういった問題を、人間の安楽死との比較において検討してみたい。

 いったい、安楽死とはどんなものなのだろうか。まず、安楽死の定義を探ってみた。ここでは安楽死をどのような手法で行うかといった問題ではなく、それ以前にあるべきと思われる安楽死を適用できる条件について考えてみた。
  安楽死には消極的安楽死と積極的安楽死があり、前者は死ぬに任せること(延命治療をしない)、後者は、死なせること(殺すこと)である。多くの場合「安楽死」は後者を指すので積極的安楽死を「安楽死」とここでは呼ぶことにする。日本尊厳死協会(註2)によると「安楽死は、助かる見込みがないのに、耐え難い苦痛から逃れることもできない患者の自発的要請にこたえて、医師が積極的な医療行為で患者を早く死なせることです。」とある。
 すなわち、1.助かる見込みが無い。2.耐え難い苦痛がある。3.本人の意思表示がある。4.医師の手による。この4つの用件のようである。

 それでは法的にはどのようになっているのであろうか、判例を調べてみた。以下の、安楽死の基礎知識のホームページ(註3)によると2件、存在する。

日本での「適法の安楽死の要件」
日本では、刑事事件に関連して、2度にわたり「安楽死の許容される要件」が提示されています。

昭和37年名古屋高等裁判所の「山内判決」の6要件

1. 病者が、現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っている事。
2. 病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること。
3. もっぱら、病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
4. 病者の意識が、なお明瞭であって、意思を表明できる場合には本人の真摯な嘱託、または承諾のあること。
5. 医師の手によることを本則とし、これによりえない場合には、医師によりえないと肯首するに足る特別な事情があること。
6. その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。

これは、世界で初の「安楽死容認の要件の提示」として、世界中に影響を与えました。

平成7年の「東海大付属病院事件」についての判決中の4要件

1. 耐えがたい肉体的苦痛がある。
2. 患者の死が避けられず死期が迫っている。
3. 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がない。
4. 患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしている。

 やはり基本の4要件は満たしている。

 それでは、動物の場合はどうなるのであろうか。例えばコンパニオンアニマルで、癌などに罹り、獣医師の診断で助かる見込みがなく、余生において、痛みを緩和する方法が無い場合は安楽死をすることは許されるのだろうか。上記の平成7年の「東海大付属病院事件」についての判決中の4要件をとれば「1.」「2.」「3.」の条件は満たすことになる。問題は「4.患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしている。」である。これは動物の場合、意思確認は出来ないといっても良いのではないだろうか。つまり、動物は言葉を話すことができないからだ。これと同じ問題が人間にも起りうる。乳幼児や痴呆老人、脳性まひや意識を回復しない人間など意思表示が出来ない場合である。「オランダの安楽死問題 - 要請なしの生命終焉行為  長岡成夫 」(註4)によると、「患者からの明確で持続的な要請なしに医師により実施される生命終焉行為(Life-terminating Acts Without Explicit Request of the patient, LAWER)である。(中略)このLAWERを、安楽死とは全く異なる慈悲殺であり否定されるべきものと見るのか、あるいは患者が自分の意思を表明することができなくなった時点での関係者の総合的判断によるものであり一概に否定すべきではないと見るのか、この点の評価については個々のケースに即した判断がなされなければならない。」 とある。

 まず、個々のケースに即した判断の為に検討されるのはパターナリズムの考え方である。これは、例えば、病気の幼児に対し医者が治療に必要であると認めた注射を拒否する場合、無理やり押さえつけてでも本人の為に注射をするといったことである。この場合、幼児にはその注射の持つ意味を正確に把握できないから、他者により判断され、その幼時の為になることがわかっているので、その幼児の意思に関係なく、注射を打つことが正当化されるといったものである。

 安楽死の場合はどうなるのであろうか。不治の病に罹り、残り少ない余生が、何の楽しみも無く、苦痛しかない場合、死期を意図的に早めることは、苦痛からの解放と捉えることができるだろう。だとすれば、意思表示の出来ない本人の為に、他人が苦痛から意図的に死期を早めて解放してあげることも、パターナリズムとして正当化できるのではないだろうか。
また同じような考え方であるが少しちがった考え方がある。それは当人が意思表示をできない場合、他者の判断による安楽死が存在するというものである。それは、アドバンス・ディレクティブの考え方での安楽死の場合である(「オランダの安楽死問題 - 要請なしの生命終焉行為  長岡成夫 」(註4))。アドバンス・ディレクティブとは本人が前もって、意思表示できない状態になったときのために安楽死することをあらかじめ書面にしておくことである。しかし、実際に極限状態になったその時に、本人が心変わりする事もありえるので、以前にアドバンス・ディレクティブを書いたときの自分と同じ気持ちであるかどうかは分からない。つまり、極限状態になった時の本人にとって、以前にアドバンス・ディレクティブを書いた時の本人の意思ではないのであれば、それは自分の意思ではあるが他の考え方であるといえるから、事実上他人の意思であるともいえるのではないだろうか。そうであるならば、他人の意思決定により安楽死は行われることがいえるのではないか。だとすれば、それを拡張すれば、本人の状況をよく理解しているような、本人にとって近い存在である近親者や、医師などの他人の意思で安楽死を行っても良いのではないかということになる。これが正しいとすれば「4.患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしている。」は個々のケースに即した判断を考慮して正当化されうることになる。つまり、「4.患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしている。」は必ずしも必要とされない場合もあるのではないか。ただし、「1.」「2.」「3.」の要件を満たし、「4.」の条件を確認することが出来ない場合に限られるだろう。このアドバンス・ディレクティブの考えも、結局は当人の為(苦痛からの解放と言う理由で)になされることになり、パターナリズムと言えるのではないだろうか。

 それでは人間の場合、強制的な安楽死は存在するのだろうか。これは法的、倫理的な問題があり実質上、存在しないだろう。さらに、上記の4要件を満たすはずも無く、その上、意思に反して行うことであるから、すなわち嫌がっているのだからそのこと自体が精神的苦痛を与えることになり、安楽死とは呼べないのではないだろうか。動物の場合も意思に反して、つまり無理やり行うのであれば、その時点で精神的苦痛を与えることになり、安楽死とは呼べないだろう。また、安楽死はそういった苦痛からの開放という自殺の幇助と捉えることも出来るだろう。多くの場合、動物は自ら死を選択することはないと思われる。(レミングの集団自殺についてもいろいろ仮説がたてられているようだが。)例えば、人間の場合のように将来を悲観して、病気を苦にしてだとか、ある程度、明確な理由での自殺は無いのではないか。また、そうなると、動物の明確な意思は確認できないにせよ、自殺の幇助と捉えることもできる安楽死を自ら望む動物はいないのではないだろうか。しかし、その理由は、動物や乳幼児は安楽死を苦痛からの開放であることを理解できないと言う事にあるといえる。だとすれば上記のパターナリズムやアドバンス・ディレクティブの考えと同じことが適用できるのではないだろうか。つまり、状況に応じてその動物に近い他人や病状を把握している獣医師の判断で行うことも可能ではないのだろうか。

 ここまでを、まとめてみると、動物の安楽死と呼べ、尚且つ、動物の愛護と管理に関する法律第44条に違反しない要件であると思われるのは
1. 耐えがたい肉体的苦痛がある。
2. 動物の死が避けられず死期が迫っている。
3. 動物の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がない。
この上記の3要件が満たされている場合に限られるだろう。
4. 動物自身が安楽死を望む意思を明らかにしている。(通常はありえないだろう。)

 安楽死と呼べないものは、上記の条件以外で殺すことである。例えば、強制的に行う健康体の安楽死、行政における殺処分、屠殺、動物実験後の殺処分などは安楽死とは呼べない。人間にせよ動物にせよ、強制は(精神的)苦痛を伴うといえるからだ。例えば、野生動物を強制的に捕まえたとしたら、動物は逃げようとするだろうし、もがき暴れるだろう。逃げるために、攻撃さえしてくるかもしれない。このことは、動物は恐怖と言う苦痛を感じていると言えるだろう。判りやすくいえば、強制殺、つまり殺人や強制Sex,つまり強姦は、例え痛みに配慮して行われたとしても、安楽殺や安楽Sexとは呼べないのと同じである。さらに、このことからも強制による苦痛は当事者にとって重要なことであればあるほど、その苦痛も大きくなるということがいえるのではないだろうか。そうであるならば、生死にかかわることであれば、その強制は当事者にとって最重要なことであり、もっとも大きな苦痛があるといえるのではないだろうか。

 動物実験後の殺処分は通常、健康体に強制的に危害を加えたり、不健康な状態にして苦痛を与えているため、その時点で安楽死とは呼べない。つまり、わざと死期を近くして苦痛のないように殺すのであれば、それは安楽死とはいえないだろう。

 また、健康体の動物に関して、安心させておいて殺すような方法、つまり、だまし討ちで殺すような手法(動物との信頼関係を悪用すること)は、動物がこれからされることを理解している、いないにかかわらず、殺すという目的が動物にとって大きな不利益を与えることであり動物の為であるとはいえない。また、倫理上の問題があることは自明であるのでここでは論じない。

 それでは、実際に「安楽死」に関係する団体等がどのように検討しているのか、その基準や考え方を見てみよう。
 最初に動物実験の、いわゆる「安楽死」についての(任意で探し出した)指針等を見てみたい。

徳島大学動物実験指針(註5)
安楽死とは?
安楽死(euthanasia)の語源はギリシャ語の良い(eu)と死(thanatos)に由来する。「良い死」とは,疼痛や苦痛が最少限の死である。この報告書における安楽死とは動物を人道的な死に至らしめる行為である。動物の生命が奪い去られる時,畏敬の念をもって可能な限り疼痛や苦痛を伴わずに死に至らしめることは,獣医師として或いは人としての責任である。安楽死に用いる方法は,速やかに意識を消失させ,続いて心肺機能の停止及び最終的な脳機能の停止を生ずる必要がある。加えて,動物が意識を消失するまでに感じる苦痛や不安は最少限度でなくてはならない。本研究会は,疼痛及び苦痛を全くなくすることはできないと認識している。従って,本報告書では安楽死が実施される各々の状況という現実と動物の疼痛及び苦痛を最少限にするという理想とのバランスをとるよう試みている。
一般的な配慮
本研究会は,安楽死の方法を評価するために,以下の基準を用いた:(1)疼痛,苦痛,直接的な或いは将来的な不安を伴わずに,意識消失及び死に至らしめること;(2)意識消失に要する時間;(3)信頼性;(4)人に対する安全性;(5)不可逆性;(6)要求及び目的との適合性;(7)傍観者或いは作業者に対する感情的な影響;(8)安楽死後の評価,実験或いは組織の利用との適合性;(9)薬剤の利便性及び人の乱用の可能性;(10)種,年齢及び健康状態との適合性;(11)用いる器材が適切に作動するよう維持できること;(12)肉食動物/腐肉食動物が死体を摂食した場合の安全性。

 まず、安楽死の定義を通常の定義よりかなり広義に変更し「安楽死とは動物を人道的な死に至らしめる行為」としている。自分達が動物を死に追いやっておきながら、「人道的な死に至らしめる行為」すなわち、人道的に殺すという、不可思議なことになっている。わかりやすく言えば苦痛さえなければ何をしても良いという考えである。しかし、ここではそのこと問題にしているのではなく、かなり安楽死の定義を広くしなければ動物実験における「慈悲的殺処分」を「安楽死」とは呼べないと思われることが問題なのである。つまり、動物実験での「慈悲的殺処分」は「通常の安楽死」ではなく、痛み、苦痛などの危害に配慮するだけで「安楽死」であると主張しているといえよう。また、この指針における特徴は、「疼痛,苦痛,直接的な或いは将来的な不安を伴わずに,意識消失及び死に至らしめること」の文中の「直接的な或いは将来的な不安を伴わず」にある。つまり不安や恐怖を苦痛であり危害と認めている点にある。この点は動物実験における動物の殺処分が強制的である以上、動物に不安や恐怖や精神的な苦痛は当然、存在するということができる。したがって、この指針の基準((1)疼痛,苦痛,直接的な或いは将来的な不安を伴わずに,意識消失及び死に至らしめること)によってもこの指針による安楽死の実行に「強制」がある以上この指針自体が矛盾していることになり「安楽死」とは言えないことを自ら証明している指針であると言えよう。つまり、安楽死をよく検討した指針ではないということができる。

 次に行政での殺処分の指針を見てみよう。

動物の処分方法に関する指針(環境省)(注6)

(抜粋)
第1 一般原則
管理者及び殺処分実施者は、動物を殺処分しなければならない場合にあっ
ては、殺処分動物の生理、生態、習性等を理解し、生命の尊厳性を尊重する
ことを理念として、その動物に苦痛を与えない方法によるよう努めるととも
に、殺処分動物による人の生命、身体又は財産に対する侵害及び人の生活環
境の汚損を防止するよう努めること。

第2 定義
この指針において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めると
ころによる。
(1) 対象動物 この指針の対象となる動物で、動物の愛護及び管理に関する
法律(昭和48年法律第105号)第44条第4項各号に掲げる動物
(2) 殺処分動物 対象動物で殺処分されるものをいう。
(3) 殺処分 殺処分動物を致死させることをいう。
(4) 苦痛 痛覚刺激による痛み並びに中枢の興奮等による苦悩、恐怖、不安
及びうつの状態等の態様をいう。
(5) 管理者 殺処分動物の保管及び殺処分を行う施設並びに殺処分動物を管
理する者をいう。
(6) 殺処分実施者 殺処分動物の殺処分に係る者をいう。

第3 殺処分動物の殺処分方法
殺処分動物の殺処分方法は、化学的又は物理的方法により、できる限り殺
処分動物に苦痛を与えない方法を用いて当該動物を意識の喪失状態にし、心
機能又は肺機能を非可逆的に停止させる方法によるほか、社会的に容認され
ている通常の方法によること。

 「殺処分動物の生理、生態、習性等を理解し、生命の尊厳性を尊重することを理念として、その動物に苦痛を与えない方法によるよう努める~」とあり、苦痛の定義は「痛覚刺激による痛み並びに中枢の興奮等による苦悩、恐怖、不安及びうつの状態等の態様」である。そして、「殺処分動物の殺処分方法」は「できる限り殺処分動物に苦痛を与えない方法を用いて当該動物を意識の喪失状態にし、心機能又は肺機能を非可逆的に停止させる方法によるほか、社会的に容認されている通常の方法によること。」とある。前述の徳島大学動物実験指針(註5)とほぼ同じような考えである。

 まとめると、
1. 苦痛の定義は、痛み、苦悩、恐怖、不安等である。
2. その動物に苦痛を与えない方法によるよう努め、
3. 当該動物を意識の喪失状態にし、
4. 心機能又は肺機能を非可逆的に停止させる方法か、
5. 社会的に容認されている通常の方法、
 で殺すことである。

 2.と5.は極めてあいまいであると言わざるを得ない。何故ならば2.に置いては努力義務しかないと言えるし、5.においてはどんな方法であるのか全く不明である。これではこの指針は守る必要がないといっているのと同じで、全く指針の意味を成さない。正に骨抜き指針であると言える。

 環境省の動物の処分方法に関する指針では「安楽死」及び「安楽殺」の言葉は全く使用されていない。これは、本当のところはわからないが、安楽死の定義に「健康体の強制殺」が、入ることは有り得ないからではないだろうか。なぜならば、強制されることですでに1.の苦痛が存在するからだ。このあたりは環境省においてはある程度深く検討されているのかもしれない。

 しかし、地方自治体では殺処分という人道的でないイメージを少しでも良くしようとしたためか、殺処分を「安楽死」「安楽殺」と表現している場合が多々見られる(註1)。これは地方自治体が安楽死の方法論しか検討していないから、こういった問題が起きるのではないだろうか。しかし、そうすることによって、新たな大きな問題が生まれてくる。それは地方自治体が、この「安楽死」「安楽殺」と言う言葉を使用、宣伝することによって、殺処分を苦痛なく死ぬことと勘違いし、愛護動物の保健所等への持ち込み数が増える可能性があることである。
 したがって環境省が「安楽死」という言葉を使用していないように、行政における殺処分はあくまで殺処分と呼ぶべきもので安楽死とは呼べない。

 次に動物福祉団体である日本動物福祉協会の例を見てみよう。
 神様助けてドットコムのホームページ(註7)によると日本動物福祉協会(註8)の安楽死に関するメールでの回答は以下の通りである。

社団法人 日本動物福祉協会
当ホームページの管理人の問い合わせに対する回答

『メールと掲示板を拝見いたしました。
ご存知のように、当協会は、殺処分を「推進」している団体ではありません。当協会の新会員には当協会の活動方針という資料をお送りしていますが、その中で、健康な動物の安楽死処置には反対だが、大変不本意ながら、飼い主から捨てられたり、捕獲された放浪動物の場合には、新しい良い飼い主が見つからなくて最終の選択肢として健康な動物の安楽死処置が必要になることも認める、と書いております。また、当協会は、新しい飼い主を見つけるからと言ってお金をとり、安楽死をすることは詐欺の疑いがあると考えます。当協会のセンターで動物を引き取る場合、新しい飼い主をさがしを第一義に努力をしておりましたが、どうしても見つからない場合はやむを得ず安楽死をさせることもあるということを了解していただいた上で引き取っていました。しかし、センターに入ってくることなく、黙って動物をセンターの前に置いていかれることも非常に多く、その場合はそのような説明もできないまま引き取らざるを得ない状況でした。動物保護施設には、安楽死を認めない施設と、安楽死を認める施設があり、安楽死を認めなければ、引き取りを拒否しなければならないこともあるし、引取り以頼を断らなければ、やむを得ず安楽死を選択せざるを得ないこともあるというのが日本の現状だと思います。もし、引き取りを拒否せず、また安楽死も認めず、全て飼育するとなると、施設内の動物数はあっという間に膨れ上がり、動物にとって大変劣悪な状態になって、生き地獄となるでしょう。また、日本では保健所に引きわたさず、動物を公園などに捨てるほか、地域によっては海・川に投げ入れる人も現在でもまだ多いのです。当協会は、本当の意味での地域猫活動には賛成です。私たちは一人ひとり意見が違うのも当然のことですが、根本的なところ、「動物を守りたい」という点では同じだと思います。一部ではなく、全国的な活動にするためには、考え方が同じ部分は共に活動し、異なる部分では意見交換しつつそれぞれが頑張って活動することが大切のように思います。
長くなりましたが、この件についてのお知らせとお問い合わせを大変感謝いたします。』

 要約すると以下のようになると思われる。
1. 殺処分を「推進」している団体ではない。
2. 健康な動物の安楽死処置には反対である。
3. 飼い主が見つからない場合は、健康な動物の安楽死処置が必要になることも認める
4. 安楽死をさせることもあるということを了解すれば、引き取る。
5. 引取りを拒否しないために、安楽死を実行している。
6. 根本的なところ、「動物を守りたい」。

 ここには、安楽死についての詳細は書かれていない。健康体の動物の安楽死については上記にも書いたが、健康体の動物の安楽死は強制であり精神的苦痛が存在するため安楽死とは呼べない。「動物の引取りを拒否しないために、健康体の安楽死(この場合は強制殺といえる)を実行している」ことは動物と愛護に関する法律44条(註9)における「みだりに殺すこと」つまり「正当な理由なく殺すこと」にならないのだろうか。何故ならば、こういった、動物福祉団体や動物愛護団体は動物の引き取りに関しては不完全義務しかないのである。つまり、引き取りたければ引き取ればよいだろうし、引き取りたくなければ引き取らなくても良いのである。絶対に引き取らなければならないという完全義務はない。(行政は法律(動物と愛護に関する法律35条)(註10)により引き取らなければならない義務がある)。にもかかわらず、つまり、自ら進んで動物を引き取り、そして飼い主が見つからない場合は、痛みに配慮して強制的自家殺処分をするとしている。これは、完全義務で無い以上、引取りを拒否し、強制的自家殺処分を回避できるという方策があるにも係わらず、それをしないということは積極的とまではいえないかもしれないが、自ら進んで強制的自家殺処分をしていることになるのではないだろうか。つまり完全義務でないのに、動物を引き取り、さらに殺すことは、正当な理由とは言えないだろう。さらに、新たな問題も生じてくる。もし、安楽死の検討さえせず、動物福祉団体や動物愛護団体が「安楽死」と称して「飼い主が見つからない動物」に強制的自家殺処分を実行することを認めるとするならば、動物生産業者や動物販売業者に、「飼い主が見つからない動物(不用動物や売れ残った動物)」の「自称安楽死」を認めることにも繋がり、動物達にとっては不幸の連鎖の始まりであるだろうし、そういった動物福祉団体や動物愛護団体は動物生産業者や動物販売業者の不用動物の間引き等と、結果的に同じことをすることになり、つまりそれを容認し、その事を批判できなくなるだろう。また、その事が一般飼い主にまで拡張されると、動物と愛護に関する法律44条(註9)は全く意味を成さなくなるのではないだろうか。

 続いて動物愛護団体であるARK(アニマルレフュ-ジ関西)(註11)を見てみよう。
 以下、アニマルレフュ-ジ関西ARKニュースレターVol.67より抜粋。

安楽死についてスー・スターンバーグ
全国のすべてのシェルターにある犬舎で「里親との出会い」を待つ犬1頭1頭に尋ねたい質問が2つあります。それは、安楽死にかかわる2つの最も重要な問題??すなわち、QOLと行動適性??について、表面上同じように見えて、実際はまったく別の質問です。
1.この犬は、今日、行動的に、精神的に、感情的に、昨日よりも良い状態か?
2.この犬は、今日、行動的に、精神的に、感情的に、入所した日よりも良くなっているか?
質問に対する答が2つとも“Yes”でなければ、安楽死させる方が犬のために幸せです。判断は、安楽死について「賛成か反対か」とか、方針、感情、感覚をもとに決めてはいけません。あくまでも、犬にとっての最大利益という観点から決定すべきものです。犬は「今を生きる」動物。彼らに地獄の苦しみを味わせないように気を配るのは我々人間の責任です。もしも、感情や行動の様子が悪化したり、精神衛生が破綻した犬を生かしておくとすれば、それは、人間のわがままです。危険な犬や、一生涯、異常行動に悩まされることになる犬を市民に譲渡するのはフェアではありません。
安楽死は、影響力が強く、心をかき乱す重大問題です。私は、18歳のときから、安楽死にかかわり??その場に立ち会い、体を支えたり、慰めたりして実施を助け??また、決断に悩む人を励ましてきました。18歳の頃に比べて、今の方が、安楽死を理解することも、体験することも、難しいような気がします。それでも、収容された犬が「いつかはご主人に出会えるはず」と期待しつつ惨めな生活を送ることの方が、私には、ずっと衝撃的で、心を乱される重大事です??これが、20年以上、全国の様々なシェルターで働いてきた私の思いに他なりません。

 ここにも安楽死と言うものがいったいどういった事であるのかは書かれていない。自分達が作った基準を書いているだけである。要約すると以下のようになるだろう。

 判断基準を用いる為の前提は以下である。
1. 犬は「今を生きる」動物である。
その前提を基に作られた理由は以下である。
2. 感情や行動の様子が悪化したり、精神衛生が破綻した犬を生かしておくのは誤りである。
3. その理由は人間のわがままであるからだ。
そして、その判断基準は、以下である。
4. 安楽死について「賛成か反対か」とか、方針、感情、感覚をもとに決めない。
5. 犬にとっての最大利益という観点から決定すべきものである。
そして「強制的自家殺処分」をするための要件は以下の条件である。
6. この犬は、今日、行動的に、精神的に、感情的に、昨日よりも良い状態か?
7. この犬は、今日、行動的に、精神的に、感情的に、入所した日よりも良くなっているか?
そして、6.7.の二つの条件が満たされなければ「強制的自家殺処分」をしても良いとする。

 まず、前提を見てみると『犬は「今を生きる」動物である。』と断言する。この意味は犬には今起っている現実しか認識する能力はないという意味であろうか。犬には未来への希望などないのであればこの主張は正しいと思われる。確かに人間ほどの計画性や将来設計は無いかもしれないが、犬にも未来に対する希望や何らかの利益を期待することはあるのではないだろうか。餌やおもちゃなどを隠す行動や、仔犬を守ろうとする行動、餌をくれる人に尻尾を振って喜ぶ行動などは、近い未来の利益を期待しての行動ではないだろうか。仮にもしその主張が正しいとしても、殺されること無く生きていれば将来出会えるかもしれない何らかの機会や利益を無視することは正しいといえるのであろうか。生きていれば必ずしも不幸が待っているわけではない。生きてさえいれば出会える幸福もあるのである。
 また、犬には未来に対する希望や何らかの利益を期待することがないという事はどのように判断されるのであろうか。その判断が人間の主観によって決められるとするならば、まさに独善的であり、その結果、シェルターに一生閉じ込めるという決断であるならば、それこそが正に虐待であり、自家殺処分であるのであれば人間の主観により殺されることになる。これは、誰にも判断できないといっても良いのではないだろうか。

 そのように考えると、犬は今だけを生きているとはいえない。したがって、生きていれば出会えるかもしれない利益や機会さえ奪うことは誤りであると言えるだろう。そうすると、前提が誤っているために、あとの判断基準やその要件は意味を成さなくなる。さらに、日本では動物の愛護と管理に関する法律第44条に抵触するだろう。もし、これが抵触しないのであれば、素行不良動物、里親の見つからない動物、不用動物等々の自家殺処分が許されることになり、痛みに配慮さえすればそういった動物を殺すことは自由になり動物と愛護に関する法律は意味を成さなくなるであろう。ここでも、安楽死の検討が適正に行われているとは言いがたい。


 おわりに。
 動物の安楽死を人間の安楽死との比較により、過去の判例や動物と愛護に関する法律を含めて検討し、また、以上のように、動物実験団体における指針、環境省の指針、地方行政の実態、動物福祉団体、動物愛護団体の「安楽死」に対する考えを見てきたが、いずれも詳細に検討されて適切に「安楽死」と言う言葉が使用され、実行されているとは言えない。その概要は、まず、動物には同意を得ることが難しい(不可能と言っても良いだろう)。さらに現実的な問題であるが、(たとえ、痛みに配慮したとしても)強制的に殺す事、すなわち、「強制」は当該動物にとって多大な苦痛を伴うことであり、その時点で「安楽死」とはいえない。にもかかわらず、「安楽死」と呼ぶことに問題があるといえる。

安楽死と言えるのは以下の条件で、親近者や病状を把握している獣医師等の判断がある場合に限られるであろう。
1. 耐えがたい肉体的苦痛がある。
2. 動物の死が避けられず死期が迫っている。
3. 動物の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がない。

したがって健康体の動物を痛みに配慮して殺すことや恣意的に不健康な状態にしてから痛みに配慮して殺すことは人間と同様に「安楽死」とは呼べないし、強制という精神的苦痛(動物実験の指針や環境省の殺処分における指針では精神的な恐怖等を苦痛と認めている)が生じる以上、虐待と言えるのではないか。そうなると愛護動物の場合は明らかに「動物の愛護と管理に関する法律、第44条(註9)」の違反であることになる。また、こういったことを「安楽死」と呼ぶことは誤りであり、動物福祉団体や動物愛護団体等においてば、社会敵影響等も考慮すれば、直ちに自家殺処分を中止すべきで事ではないだろうか。

また、安楽死に関係する団体等においては、安楽死の方法論に終始するのではなく、それ以前の問題として、安楽死が動物に適用できるのかどうかということや安楽死と言う言葉を使うことが適切であるのかどうかと言うことを検討すべきであったことは否めないであろう。


(註)参考文献等

(註1)
和歌山県動物愛護センター
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/031601/gaiyou/gaiyou.htm

和歌山県動物愛護センターの概要
  「人と動物が共生する潤いのある社会づくり」をめざして

(1) 和歌山県の動物保護の現状
 和歌山県動物愛護センター及び各和歌山県立保健所では、和歌山県内(和歌山市を除く)の野犬の保護、飼えなくなった犬・ねこの引取等を行っております。
 これらは、動物の習性などに対する理解や知識不足のまま安易に飼い始めるなど理由は様々ですが、その数は犬・ねこあわせて年間約5千頭にのぼっています。
 これらのうち、センターでの譲渡事業で新しい飼い主にもらわれていくのは1割にも満たず、ほとんどが安楽死処置となっています。

岡山県動物愛護センター
http://www.pref.okayama.jp/hoken/douai/html/gyomu_shokai/gyomu_shokai_kanri_3.html

【センターからのお願い!!】
・飼養場所まで引取りに行くことはできません。逃走しないように準備して連れてきてください。
・ ペットは終生飼うことが望まれます。引き取られた犬猫は、一部譲渡されるものを除いて大半は安楽死処分となります。可能な限り新たな飼い主を探すなどの努力をしてください。

(註2) 日本尊厳死協会 http://www.songenshi-kyokai.com/
(註3) 安楽死の基礎知識 http://www4.ocn.ne.jp/~tachi/siseigaku-no-susume-anraku.htm
(註4) オランダの安楽死問題 - 要請なしの生命終焉行為 長岡成夫
『実践哲学研究』第20号、pp.19-36 1997年11月
    http://www.ed.niigata-u.ac.jp/~shigeo/Dutch_Eutha.html
(註5) 徳島大学動物実験指針 http://www.anex.med.tokushima-u.ac.jp/sisin/sisin_anraku.pdf
(註6) 動物の処分方法に関する指針(環境省)http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/laws/shobun.pdf
(註7) 神様助けてドットコムのホームページ http://www.kamisama-tasukete.com/annrakushi.htm
(註8) 日本動物福祉協会 http://www.jaws.or.jp/
(註9) 動物の愛護及び管理に関する法律
  第44条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。
  2 愛護動物に対し、みだりに給餌又は給水をやめることにより衰弱させる等の虐待を行つた者は、50万円以下の罰金に処する。
  3 愛護動物を遺棄した者は、50万円以下の罰金に処する。
  4 前3項において「愛護動物」とは、次の各号に掲げる動物をいう。
 一 牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
 二 前号に掲げるものを除くほか、人が占有している動物で哺乳類、鳥類又は爬虫類に属するもの
(註10) 動物の愛護及び管理に関する法律
(犬及びねこの引取り)
  第35条 都道府県等(都道府県及び指定都市、地方自治法第252条の22第1項の中核市(以下「中核 市」という。)その他政令で定める市(特別区を含む。以下同じ。)をいう。以下同じ。)は、犬 又はねこの引取りをその所有者から求められたときは、これを引き取らなければならない。この場 合において、都道府県知事等(都道府県等の長をいう。以下同じ。)は、その犬又はねこを引き取るべき場所を指定することができる。
2 前項の規定は、都道府県等が所有者の判明しない犬又はねこの引取りをその拾得者その他の者から求められた場合に準用する。
3 都道府県知事は、市町村(特別区を含む。)の長(指定都市、中核市及び第1項の政令で定める 市の長を除く。)に対し、第1項(前項において準用する場合を含む。第5項及び第6項において同 じ。)の規定による犬又はねこの引取りに関し、必要な協力を求めることができる。
4 都道府県知事等は、動物の愛護を目的とする団体その他の者に犬及びねこの引取りを委託することができる。
5 環境大臣は、関係行政機関の長と協議して、第1項の規定により引取りを求められた場合の措置に関し必要な事項を定めることができる。
6 国は、都道府県等に対し、予算の範囲内において、政令で定めるところにより、第1項の引取りに関し、費用の一部を補助することができる。
(註11) ARK(アニマルレフュ-ジ関西) http://www.arkbark.net/
ARKニュースレターVol.67 A VOICE FOR ANIMALS AUTUMN 2007 http://www.arkbark.net/j/index.htm
安楽死についてスー・スターンバーグ 




こちらは、7月21日殺処分予定(新しい飼い主さん・保護主さん緊急募集されております)
http://satooya-bosyu.seesaa.net/article/156381734.html


川崎市在住、隣接の都県市の方で川崎市動物愛護センター(高津区蟹ヶ谷)収容犬猫の譲渡を希望される方は、センターに電話でお問合せください。
譲渡動物情報 
http://www.city.kawasaki.jp/35/35dobutu/home/zyouto/centerzyouto/cat/list.html
川崎市動物愛護センター  電話 044-766-2237




支援物資ありがとうございます。
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・ボランティア ・フード支援 ・ワクチン代のカンパを!

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約1500円で、一匹の子猫にワクチン接種を受けさせてあげる事ができます。
子猫の引き出しと同時に、直ぐに必要となります医療やワクチン接種を多くの子猫達が受けられ、命が救われますように、カンパのご協力をお願い申し上げます。


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〒210-0834神奈川県川崎市川崎区大島4-23-13
TNR日本動物福祉病院 ボランティア事業部宛

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目標額10,000,000円達成で設備を整え、一般診療等を充実していきます。   
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